PS版ダビスタの話です。コアなPS版ダビスタプレイヤー以外は面白くないと思うので、ご了承ください。
前回の記事はこちら。
PS版ダビスタの発売された夏。
大学が夏休みに入ったあとは、まだ見ぬ最強馬を求めて生産にのめり込んでいた。
そんなある日、ニフティーサーブのアカウント宛にメールが届く。
「Fと申します。中山さんの代理でメールを書いています。
秋に宝島社からダビスタの攻略本を出すのですが、協力していただけないでしょうか?」
!!!!
とんでもない驚き。
Fさんは、ダビスタの強豪として有名だったが、ニフティ内でもそれほど付き合いはなかったので、意外だった。
中山さんは宝島社の競馬雑誌「ダービーを一生遊ぶ(ダビ遊)」読者の間では「編集中山」として有名で、イラストつきでよく誌面に出ていた人である。
夏休み中で暇だった僕は、「大丈夫です!」とすぐに返信。
Fさんからも即返信が来て、
「それじゃあ、明日宝島社まで来てもらえませんか?」とのこと。
なんという急展開。
翌日。
神奈川の田舎町から東海道線に乗って、新橋へ。新橋で銀座線に乗り換えて、赤坂見附。永田町まで歩き、半蔵門線に乗って半蔵門駅で降りる。
宝島社は日本の中心ともいえる皇居の近くにあった。
ドキドキしながら受付で中山さんを呼び出すと、イラストそっくりな中山さんが登場。
熱烈なダビ遊読者である僕は有名人に会うくらい嬉しかった。
「湯一路です」
「あーどうもー」
軽く返事をする中山さんは当時30近かったが、少年のような感じだった。
そして、中山さんともう1人、その後長い付き合いとなる菅さんもいらっしゃった。
菅さんはフリーの編集者で、ダビ遊の編集ではなかったが、名著・ダビスタ全書にも関わっていた人。元エロ本編集者でもある。
ダビスタ全書ではイラストつきで紹介されていたので、菅さんのことも僕は知っていた。菅さんはイラストとは全然似ていなかった(笑)
「とりあえずさー、仕事手伝ってくれない?」と初対面の菅さんは軽く言い、当時3階にあったダビ遊編集部に通される。
雑誌編集部といえば雑然としたイメージだったが、ダビ遊の編集部はオシャレで洗練されていた。
「ダーマトで指定をいれて欲しいんだよ」と菅さんはいう。
わけがわからなかったが、ダーマトと呼ばれる赤いクレヨンで、写真に指示を入れていくらしい。
その単純作業が僕の初仕事となった。
作業が終わった頃、中山さんが言う
「近くに事務所があるから、そちらへ行こう」
中山さんはこの年の7月一杯で宝島社を辞め、同僚だった野本さんという人と編集プロダクションを立ち上げるらしい。
その事務所が近くにあるという。
中山さんの事務所は、宝島社からほど近い、ライオンズマンションの8階にあった。
この夏は、この事務所に入り浸ることになる。
「ニフティのさ、フォーラムっていうの? そこで湯一路君の書き込みを見てスカウトしようと思ったんだよねー」と中山さん。
当時の僕はニフティのFHGAME(競馬ゲームフォーラム)へ積極的に発言していた。
そこで、ある能力判定理論を発表して軽く話題になったとき、「自分も昔からやっていたよ」というレスがついて、その返信がよかったというのだ。
「だってさー、普通はムカつくじゃん、後出しでそんなこと言われて。でも、そこで大人な反応だったから気に入ったんだ」とのこと。
意外な事実にびっくりしたが、どこに縁があるのかはほんと不思議だ。
さらに中山さんは驚くべきことをいう。
「とりあえずさ、次号のダビ遊に6ページ分書いてくれない? テーマは調教で」
いきなりの素人への原稿依頼。しかも、雑誌で6ページも?
普通では考えられないと思うが、この適当さが中山さんらしい。
当時のダビ遊といえば、競馬雑誌でありながら誌面の大半がダビスタの記事で、ダビスタ担当だった中山さんは、ほんと大変だったとは思うが。
それから2週間くらいはダビスタの生産をしつつ、6ページの記事に全力をそそぐことになる。
とにかくダビ遊といえば、全国のダビスタファンが読んでいる雑誌だけに、下手なことは書けない。
神奈川の実家にはほとんど帰らず、ライオンズマンションの事務所に泊まり込み、宝島社のダビ遊編集部に時々顔を出すという生活を送ることになる。
そんなある日。
ダビ遊編集部にあるプレステで生産を行っていると、白毛の馬が生まれた。馬体重はやや重めだが、かなり強そう。
名前変えでも当たりを引く。それが、僕の代表馬の1頭となる「シドニアオブマース」だった。
名前の由来は、火星のシドニア地区にある人面岩から。
(当時はムー読者でもあった)
正確には「シドニアオンマーズ」となるところだったが、まあよい。
「この馬を育成する様子を調教特集で紹介するか……」と考える。
当時としてはかなり強い馬だし、最後にパスワードを掲載すれば、調教方法の説得力も増すはずだと。
というわけでシドニアオブマースを素材にして、はじめての原稿を書きはじめた。
余談だが、当時のゲームの画面写真撮影には「ビデオプリンター」と呼ばれる機器を使っていた。
撮影したい場面でボタンを押すだけ。それだけで紙焼きされた写真がすぐに出力されてくるのだ。
それより少し前の時代だとカメラマンに依頼して画面を撮影する方法だったらしいので便利な世の中になっていたものだ。ビデオプリンターは1枚が非常に高価なので無駄な撮影はしないでね、とは言われたが。
というわけで、ビデオプリンターで写真で撮りつつ、最初の特集記事は無事に完成した。見本誌が届いたときの感動はいまでも覚えている。
しかし、この特集で僕はちょっとしたミスをしてしまっていたのだ。
次回に続く
※ダビスタ96の話もよろしければどうぞ!